異郷からの少女

複雑性をこよなく愛する、意外と単純な人間。フェミニスト🌱Why not?

「劣った人」でいることの素晴らしさ

御機嫌よう

この記事は1年前に、大学院へ入学した頃に書き始めたものです。結局、メンタルも安定していなかったので書き終わらなかった見たい。心にようやく余裕が出ている今、この記事を書き終えたいと思う。

f:id:transparentyflat:20200305084737j:plain

Photo by John Fowler on Unsplash

皆さんは、組織の中で自分が「一番出来ない」「能力が低い」「劣った」存在だったらどう感じますか?勿論人には様々な能力があり、それを簡単に比較することは出来ないでしょう。付け加えるなら、何が優れていて、劣っているかなんて、そう簡単に判断出来るものでもないと私は信じている。

けれども、「自分は他人に比べて劣っている(優れている)」と感じて、気分が良くなったり、悪くなったりしたことがある人も少なからずいることだろう。

ただ人と比較することで、自尊心を保つことは危険だ。なぜなら、「自分自身」が他人によって規定されてしまうから。けど、まだまだそんな習性からは逃げ出せていない。

私の場合、小学生〜中学生の頃は自分が頭が良い人間だと思っていた。勉強が出来ることを誇りに思っていたし、勉強が出来ない同級生を軽蔑していた。「勉強が出来ると意気がっていた奴」だった私は、中学三年時からいじめられるようになり、結果として不登校児にもなった。

父からは、「勉強しないと将来地獄をみる」(これは言い過ぎだが)と言われ続け、他人よりも「優れた」人間になれるように努力していた。

f:id:transparentyflat:20200305085154j:plain

Photo by Monika Kubala on Unsplash

高校へ進学してからは、自分が勉強で秀でている人間ではないことに気が付いた。私よりも「優秀」な人が世界には沢山いることに気が付いた。「勉強が出来る」ことをアイデンティティの一部としていた私は、言ってみればその時アイデンティティクライシスに陥る。受験勉強を真面目にしているのも馬鹿馬鹿しく思え、高校時に南米留学。その後、国内の大学へ進学した。

学部時代は校風のせいなのか、他人からの評価やどう見られているかを、全くと言って良いほど気にすることがなかった。のびのびしていた。

学部時代、他人と比べることなく、自分の存在に意義を見出せていたのは素晴らしいことだと思う。どんなに素敵な人に出会っても、「こんな素敵な人と比べて私なんか・・・」と思うより、「私もこんな人になりたい」とか「こんな部分をこの人から学びたい」と常に思えていた。そう思えたのは、おそらくその「素敵な人たち」もどこかで、私の一部分に魅力を感じ、ある種尊敬してくれていたからだと思う。

そんな学部時代を経て、もう怖いものはないと思っていた矢先、大学院で高校以来のアイデンティティクライシスに陥る。

 ・

大学院へ進学してからは、そうもいかなくてなった。簡単に言うと、皆んな「超優秀」。先輩をみても、学部の後輩(?)をみても、同期にしても。どれだけ早く反論・反応出来るかを誇りに思っている人が殆どで、批判し合うことがデフォルトだ。この1年で、日常生活でも「けど」と言うことが増えたようにも思える。それを私の友人や家族がどう思っているかはわからない。

大学院の話に戻ると、授業中に行った自己紹介で、私はとても長い研究科の名前を、「え〜と・・・何だっけhaha」とゴニョゴニョ言っていたら、他の学生にドン引きされ、白い目を向けられた。研究科の名前を言うことが出来るか出来ないかなんて、普段の私にとってはどうでも良いことだ。それでも、「劣った人間」としてクラス中から見なされるのは精神的に応えた。

他にも、私は言語や海外経験が豊富だったり、広い視野を持っていることが、私の取り柄だと思っていた。すなわち、それらが私を私として成立させていた。ただ、進学後は4言語を操る同期などに出会い、そんな私の自信は粉々になった。

「自分」とは何か。自分の取り柄はなんだったのか、いきなり分からなくなってしまったのだ。

まぁ、今となっては彼らにない「良さ」を自分は持ってると何となく思えるようになったが、入学当初は自分が「劣った人」である事実が辛くて仕方なかった。

自分が「劣った人」であると思い込んでいると、何も発言出来なかった。あとは、「知らないこと」、「劣っていること」が悪いことにしか思えなくなっていた。「何でこんなことも知らないんだ!」「自分馬鹿馬鹿・・・!」そんな風に悶々としていた。一度、自分が劣った人間であると思い込むと、他人からの賞賛の声も皮肉に聞こえてしまう。

f:id:transparentyflat:20200305091143j:plain

Photo by Vicky Ng on Unsplash

そんな葛藤を長い付き合いの友人に話すと、笑いながら、

「その環境めちゃくちゃ羨ましい!!」

と予想外のコメントを貰った。私は単に、「そんなことないよ、バッハマンも凄いよ」なんて慰めを想像していたし、期待していたのだが。

友人曰く、下っ端でいるということは、自分が最も学べる環境にあるということ。

もし、自分より「優秀な人」が周りに誰もいなかったらつまらないよと言われた。確かにそうだ。そこで私は開き直ったわけである。友人は社会人1年目だが、周りから学べることが限られており、それが苦痛で仕方ないと言う。より自分が「劣った」人間になれるように転職を考えていると言う。(転職済)

そんな言葉をもらってから、どんなに見下され、自分の能力が最も低い環境にいても、それを学ぶためのチャンスだと思い「馬鹿です。なんでも教えてください」といった態度で過ごすようになった。

勿論、それでもしばし自尊心がボロボロにされ、自分を見失いそうになることもある。そんな時はいつも自問するようにしている。

「何も学べない環境にいるのと、多くのことを学ぶことが出来る環境、どっちを選ぶ?」

私にとって答えは明白だ。

良い一日を🍃