透明と平等 時々嫉妬

複雑性をこよなく愛する女学生。米国留学中・フェミニストクラブに気ままに所属。高校時代南米長期留学経験有り。透明と平等を重要視した国際恋愛中。

グラデーションの中で生きる私たち『君の名前で僕を呼んで』を観て

こんにちは。

米国留学中からずっと観たかった映画、『君の名前で僕を呼んで』(Call Me by Your Name)を観ました。

結構前の話ですが。

最近は、卒業論文を理由に更新が滞っています。私は毎日元気です。

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あらすじはこんな感じ。

1983年夏、北イタリアの避暑地で家族と夏を過ごす17歳のエリオは、大学教授の父が招いた24歳の大学院生オリヴァーと出会う。一緒に自転車で街を散策したり、泳いだり、午後を読書や音楽を聴いたりして過ごすうちに、エリオのオリヴァーへの気持ちは、やがて初めて知る恋へと変わっていく。 眩しすぎる太陽の中で、激しく恋に落ちるふたり、しかし夏の終わりとともにオリヴァーが去る日が近づいてくる。(フィルムマークスより)

filmarks.com

 この作品を、様々な言葉で分類したり、説明したりすることが出来るだろう。

同性愛、バイセクシャル、初恋、失恋、かなわぬ恋、友情などなど

 

けれども、人間関係や性的指向ってそんなに簡単に、いくつかの単語で説明出来るものなのだろうか。

それは、この二つの分野に限られることでもないだろうが。

 

例えば、『君の名前で僕を呼んで』のストーリーを簡単に説明すると、(※ネタバレ含みます)

 

女性にも興味がある男性二人が恋に落ちて、恋愛的関係に発展する。けれども、最終的に一方は長年付き合ってきた女性と結婚してしまう。失恋話。

二人は異性、同性に双方に興味があるから、バイセクシャルだ。

相手が結婚してしまったから、失恋だ。パートナーではない。

 

といった感じにカテゴリー化することが出来ると思うんです。

確かに、人はカテゴリー化することで物事や状況を理解することが出来る。しかし、そうしてしまうことで、分類しきれない曖昧さを抹消してしまうと思うのです。

例えば、もし誰かに問われた場合、私のジェンダーは女、そしてヘテロセクシャル異性愛者)だという答えるのが自然だろう。そう答えることに違和感もあまり抱かない。

けれども、私の中にも「男らしさ」みたいなものも存在していたりする。100%私はこういうものだと言い切ることは難しいように思える。人はグラデーションの中で生きているのではないでしょうか。

それは人間関係においても同じかもしれない。

例えば、作中で二人は世間的にいう「幸せ」な恋愛関係を手に入れることは出来ていない。

「付き合う」「結婚」「彼女・彼氏」「妻・夫」…

そのような言葉を使って、二人の関係を説明することは出来ない。

けれども、このような世間的に「幸せ」「恋愛のゴール」のように思える言葉で、分類される/出来ることが、本当に幸せなことなのだろうか。

それは私の経験でも同じ。

「彼女」というステータスを得るだけで、どこか安心したり、そこから幸せを見出したりしてきた。

逆に、関係そのものからは幸せを感じたり、満足しつつも、「付き合っていない」「結婚していない」ことを考えると不幸せになったりすることもあろう。

本当に重要なのは、分類された名前ではなくて、関係そのものの本質なのではないだろうか。

最近そんな風に考えている。

君の名前で僕を呼んで』を観て、決して人間や恋愛を含む人間関係は、いくつかの言葉で分類出来るものでもないし、分類してしまうことで消えてしまう何かがあることを再認識することが出来た。

また複雑で、はっきりしていない関係だって、「幸せの典型」のような関係と同じように素晴らしいものだと思わせてくれる映画でした。

勿論、双方を比べること自体、意味のないことにも思えますが。

 

そんな感じでしょうか。

ではではご機嫌よう。