言語化することの快感ー生みの苦しみと喜びー
御機嫌よう。
今日は一日とある報告書を作成していた。辛かった。途中で、お歳暮で届いたお菓子を大量に食べて、むしゃくしゃしてお昼寝して。
書き終わるのに、予想していた3倍くらいの時間がかかった。数行書いては消して。満足する文章を一文書くのに何時間もかかった。
普段書く文章といえば日記、手紙、ライン、レポート、記事、論文など。
自分の考えやアイディアを言語化することは簡単なことではない。とりあえず、私は院生である。しかもエスノグラフィーとか書くことが求められている院生。文章が上手くないと話にならない世界かもしれない。
だからこそ自分で書きたいことが上手く書けないと、とってもむしゃくしゃする。
それはなぜか?
自分の文章力の低さに悲しくなるという面もあるだろう。ただそれは理由の一つでしかない。恐らく私の場合、アイディアを文章化することで、自分の頭の中にあることが、実はそんなに重要でなかったり、まだまとまったものでないことに気がつく。一種のパニックに陥る。
相手に伝わるように文章を書くことで、考えが明確化したり、新たな発見があったりする。もちろん言語化することで、曖昧さが消え去ってしまうこともあろう。そこは文章力が問われることなのかもしれない。曖昧なことや、ぼやっとしたことも、言語化出来れば理想的。
以前とある尊敬する社会学者に、
「私は社会や自分の中になんとなく存在している”もやもや”を言語化していくことに魅力を覚え、社会学の道に進んだ」
と言われたことがある。
その言葉に私はしっくりくるものがあった。そんな曖昧さを、自分の言葉で表現したいとなると、生みの作業には時間がかかり、苦しみを伴う。
こんな文章も書けないなら、博論書くのだって、その後の人生も大変だ。やめてしまえ。って文章書いている時は思ったりする。けど、そんな苦しみを経て生まれたものを読むと、やはり嬉しくなる。
逆に苦しみの作業を飛ばして、色々なものを切り捨てて書いた「偽り」の文章は、結局なんの価値もない。自分の心にも響かない。
けれども私は、とある行動をする時に、何かのためにそれをするのではなく、その行為自体に意味を見出したい。すなわち、将来のために〇〇するのではなく、〇〇するのに喜びが伴うからこそ、それをする。
ただ文章を書くという行為においては、それは例外なようだ。
・
最近が何語を話しても喋るのが下手な私にとって、書く能力を養うことは重要だ。さてこれからどうするか。
ライティングについての私の愛読書はこちら。
教授におすすめしてもらった。泣けるライティング書。辛くなったら彼女の本を開いては本質に戻る。
小手先のテクニックはこの本には書かれていない。山田ズーニーさんの書くことに対する、真剣な考えが随所から読み取ることが出来る。
この本を読んでから、文章の書き方だけではなく、話し方とかにも良い変化が生まれた気がする。
・
そんなことをツラツラ書きながら、おさらば。まだまだ、書くものがあるのだ。
バーイ〜🍙