異郷からの少女

複雑性をこよなく愛する、意外と単純な人間。フェミニスト🌱Why not?

コロナでメイクしなくなった今。誰のためにメイク、脱毛、素敵な服を着るのか?

ご機嫌よう。皆様いかがお過ごしでしょうか。

久しぶりに週末、自宅周辺のお店を散策しました。数時間歩いただけでなぜかヘトヘト。なぜかと言うか2ヶ月全く運動していないので当たり前の結果かもしれません。

ただこの疲れも、自宅にこもって作業をし精神的に疲れるのとは全く違う感覚。めまいの症状も良くなったり悪くなったり。安定しない自分の体調に悲しくなることも多いですが、ここは割り切って自分のできることをやろうかなと思えるようになってきました。

と言ってもまたすぐ自分の体が思うように動かないことに、容易に落ち込んでいる自分の姿も想像できますが。

さてさて本題です。

今日久しぶりに外出し、家を出る前に何を着るか考えました。なぜなら自粛期間中は基本的に自分がリラックスできる洋服を自然に選んで来ていました。例えばノースリーブのワンピースであったり、丈が短めのワンピースなど。

別にその服を着て外に出てもいいのですが、やはり自分の体型であったり、露出の加減であったり、毛の処理であったり。そんなことを考えると、自粛期間中に着ていた服はあまり外出には適しません。かなり日本社会から逸脱した私ですけれども、やっぱりそういう社会的なスタンダードも気にしてしまいます。

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今日自分が数ヶ月ぶりにメイクをして、数ヶ月ぶりにお腹を締め付けるようなパンツを履いた行為について少し考えてみました。おそらくこれは単に社会的なスタンダードに順応したいからというわけでもなさそうです。

私の場合メイクや、少しきつくても「素敵」な服を着ることは、自分を表現する一つの手段。だからこそ自分の時間を使ったり、少し居心地の悪いものも我慢。家の中では私の性格や個性を理解してくれる人しかいないので、わざわざ少しきつめのメイクをしなくても大丈夫。個性的な服を着なくても、私がどんな人だか知っています。すね毛が生えていたとしても、私が結構綺麗好きだということも分かっています。

逆に外の世界は私を知らない人で溢れています。そんな時に容姿というのは、私がどんな人なのかを表す、わかりやすくそして、かなり強い要素になりうるでしょう。

道ですれ違う人に私がどんな人間なのかを理解してもらう必要などおそらくないでしょう。それでも自分の「容姿」というツールを使うこと自分の価値観やライフヒストリーを一から説明するより薄いかもしれないけれど、ある程度の情報を提供することができると思います。

結論(まだ定かではないが)

メイクや脱毛をする理由は、確かに社会的規範に従うべきだという圧力を感じることもう一要因であることは確かだ。しかし、最大の要因は、自分が想像する自己像や価値観を他者に容易に理解してもらうツールとして容姿を利用していることが予測される。

バーイ🌱